2011年10月26日

やおよろずの神々/呉越

さて、次は弥生時代に来た人達のこと。

約 2,300年前~ 弥生時代
・・・のはずが、どうやら「弥生時代」の定義はかなり迷走してるようです。

かつては、「文明的な弥生人が北方から来て、原始的だった日本に稲作を伝えたぞ!」みたいな筋書きで習いましたが、
しかし、畑でも育つ陸稲(熱帯ジャポニカ)が約6000年前にすでに渡って来てた跡が見つかった。持って来たヒトがいたわけです。そして、水稲(温帯ジャポニカ)の耕作もおよそ3000年前には伝わってたって話にもなって、
「現在では政治的意図もからみ弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である(Wikipediaより)」
・・・政治的意図とな???

そんなもんに付き合ってたらラチが明かないので、別の方向から当たります。



日本で2番目に多いDNA、Y染色体“O2b1/O2b”タイプ。
これは日本と韓国で多く、満洲・モンゴルにも若干広がっています。
だったら北から来た遺伝子か。と思いきや、ベトナムなどにも多少見られる。

実はこれは南のほうが本家で、

元は中国南部、長江あたりにいた人達が、周辺の民族に押し出され、船で日本列島・朝鮮半島に逃れた

ということらしいです。
兄弟タイプの“O2a(日本にもわずかにあり)”が東南アジア組なことからも、“O2b1/O2b”は長江以南の遺伝子だと。

そして、その人達が、長江周辺で培ったノウハウを元に、日本でも大規模な水田耕作を始めた、と。
まあ、普通に考えて稲作は南の方の人ですよね。黄河流域は小麦栽培が主だったらしいです。なーんで稲作は北方民族が伝えたなんてことになってたんだろう。



さて、その人達の足あと、中国悠久の歴史とやらに残ってないもんでしょうかね。

時は春秋戦国時代。(クリックで拡大)
ま、正確な地図ではないでしょうけど、要は長江付近に二つの国があった、ということですね。
呉(ご)と越(えつ)。南にあった方が越。両者は激しいライバル関係だった。
この呉が、三国志の呉とどのくらい関連があるのかはよく分かりません。「孫子の兵法」の孫子が、この呉の軍師だという話もあるとか。

そのほか、二国にはいろいろ逸話があるようですが、とりあえず省略。

紀元前473年  、越との争いに敗れ、滅亡。
紀元前334年  、内陸の楚の進撃により滅亡。

  一部の王族は南へ逃れ、のちに秦に吸収され、更にのちベトナムを建国。

日本の「弥生時代」の始まりに相当する頃、長江付近で呉と越が滅びました。
倭人は呉の太白の子孫を自称していた、と中国の史書にも書いてあるそうです。

だったら、この人達が日本に来たんやん。はっきりしてあるやん。
こんな簡単な事さえつっこまないなんて、日本の史学の人はすっとこどっこいなのですか。



この呉・越がどんな国だったというと、

中国でテレビドラマ化されてます!(クリックで拡大)
こんな人達が渡来し、日本の「弥生時代」は本格的に幕を開けたのです!
・・・え?ありゃ?まじで?(^^;;;
←じゃあなんでこうなったん・・・(クリックで拡大)

うん。どっちもおかしいですよね。
この中国の時代劇の定番スタイル、原型はおそらく秦の人(兵馬俑@始皇帝陵)です。でも、「秦の中国統一」は紀元前231年です。それ以前の中国南部で、このスタイルが浸透してたとは思えません。

かれらの生活は、かなり日本風だったはず。
だって日本の、特に平野部のひとたちの多くは、おそらく、この呉・越から来た。かれらは日本に来た途端に日本風になったわけじゃない、中国にいたときも同じような感じだったはずです。

現代でも着物売る店を「呉服屋」と言うように、着物の原型は、"呉”の衣服にあるのでは。・・・と思いますが、これは判断がむずかしい。手がかりがないのです。



一方、"越"のほうは、大陸に残った人達が、のちに南下してベトナムを建国したとのこと。これは有力な手がかりです。

ベトナムと言えばステキ雑貨の数々。


あきらかに「和」のモノとの共通点があります。
しかも、現代の日本の「和風グッズ」よりも、生きたセンスがある。色気がある。かわいい。形だけの「伝統」にはなってない。

ぞうり・下駄。鼻緒で履くはきもの。
これを、韓国では「豚の足」に例えてバカにする言い方があるそうで、つまり、このカタチは韓国にはないもののようです。
DNAの構成で見れば、日本と韓国は近い。はっきり異なるのは、前回挙げたように、日本に縄文人の遺伝子があり、最多であること。ミクロネシア経由の遺伝子があること。そして、東南アジア系の遺伝子があること、です。そして縄文人の遺伝子もおそらく東南アジア経由です。
つまりすべて南からの遺伝子ですね。
ぞうりや下駄が、そちらから来ているのは間違いない。

それに、竹製品。
竹というのは日本では、ほぼ全国(北海道・青森以外)に生えてます。なので東アジア全域でも、と思いきや、日本以外ではもっと低緯度でしか生えないそうです。
素材がなければ技術も育ちようがないですから、竹細工というのも、やっぱり南方から来た人たちの影響が大きいはずです。

呉・越の、とくに南側にあった"越”の国の文化は、かなり「和風のモノ」のベースになってる、という気がします。
服に関しては、ちょっとちがいそうですが(ベトナムの民族衣装といえばアオザイ)。


もうひとつ。
ベトナムには人形劇の伝統があります。

大蛇の動きがすごすぎる。

こちらは、日本が誇る人形劇(人形浄瑠璃)、“文楽”。

「カクン。」て。。その後どうなったんや(>_<)

ベトナムからちょっと離れて、タイには、人形浄瑠璃と同じく、3人で一つの人形を操る人形劇があるそうです。




さて、
呉と越。この二国のDNAは、まったく同じではないはずです。

おそらく、「弥生時代」に日本に先に来た呉人の、メインのY-DNAは、日本で2番目に多い“O2b1”。

越人の中にも“O2b1”はあったでしょうけれど、それだけではありえない。呉と越は言葉も異なっていた可能性が高い。
これはまったく「なんとなく」の推論ですが、“越”にも縄文遺伝子“D2”が残っていたのではないか、と私は思っています。

そして、ほぼ確実に言えるのは、日本にわずかにある“O2a”、これは越人に含まれていたのだろうということ。
“O2a”は、ベトナム含む東南アジア、中国南部に分布する遺伝子です。

東南アジアのにおいがする風貌のひと、日本にも、たまにいはりますよね。

サッカー日本代表・長友選手、ネプチューン・名倉さん。
(もちろん、実際のDNA型などは分かりませんけれども。)



えーと。
邪馬台国の成り立ちを考えるばあいに、より重要なのは、“呉”のほうです。
滋賀県の、とくに野洲川流域という稲作に向いた豊かな土地は、まず先に来た呉人が確保したにちがいないですから。

なんですが、そちらは後まわし、ひとまず“越”にフォーカスして話をすすめます。次回に、つづきます。


Posted by みゃーの at 18:47 Comments(2)

2011年09月22日

やおよろずの神々/縄文

※前回記事、修正加えました。ご了承くださいませ(>_<)



さてさて
邪馬台国の住民は、どんな人たちだったでしょうか。
ここは魏志倭人伝でも神話でもなく、一般的な歴史の話から。
DNAの話も織り交ぜつつ(手がかり程度に。詳しくはまたいずれ)。

約35,000年前~ 無土器時代(旧石器時代)
・日本列島に人が来た
・複種類の人が来たかも

約16,500年前~ 縄文時代
・縄文土器作ってた人が来た
・それ以外の人も来たかも

約 2,300年前~ 弥生時代 
・弥生土器や銅鐸作ってた人が来た
・それ以外の人も来たかも
・(“漢氏”の人も来た)

ということで、
まずは現在、一般に明らかになっているところから当たります。



まず無土器時代。
この頃の遺跡からは、かなり小柄で南国マッチョな、従来の「縄文人のイメージ図」通りの人骨が発見されているとのこと。

DNAの面から見ると、ミクロネシア~小笠原諸島を経由したと思われるタイプが、主に太平洋側に、数%の単位で存在するようです。
ですが、都道府県毎のDNAの分布データはありませんが、滋賀県にはあまりないんじゃないかなーと思います。ミクロネシアを思わせる風貌の人ってあまりいはらへんと思うんですよ。太平洋から離れてますし。

この人々は魏志倭人伝の、以下の記述に関わりがあるのではと思います。
女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
また侏儒(こびとを意味する)の国が、その南にある。人の身長は三・四尺。女王国を去ること四千余里である。
また、裸国・黒歯国があり、 またその東南に在る。船行一年で到着できるだろう。
三重県鳥羽から東へ行けば、愛知県渥美半島です。そしてさらに東へ行くと伊豆半島があり、南へ伊豆諸島、小笠原諸島、北マリアナ諸島、ミクロネシアへと連なってます。
まあそれにしても「身長三・四尺」は誇張でしょうね。「船行一年」ってのも。



で、縄文時代。
ネット上の縄文時代に関する文章を読みますと、縄文時代に日本にいた人々を全部ひっくるめて縄文人と言う傾向があるようです。
が。そこは縄目文様の縄文土器を作っていた人達、その文化を持ち込んだ人達こそが「縄文人」じゃないのかい。と私は思う。

縄文土器というと、派手な「火焔土器」を連想しがちですが、あちらは縄を転がして付ける縄目の地模様はありません。実は、また別種の人達が持ち込んだ可能性があるわけです。その人達には「縄文人」じゃなくて、別の名前が必要じゃないでしょうか?


それはさておき、縄文人。
出土した骨には特徴があって、うしろあたまが出っ張っていて(学術的には“長頭”と言うらしい)、前歯が小さいのだそうです。(実際、東北の人も、おっとりした印象の二重まぶたの人は多くても、際立って彫りが深いとか鼻が高いってことはない気がしていますが、どうでしょうね?)

で、日本で最も多いDNAタイプと、アイヌのDNA(ほぼ単一)は一致してまして、それが縄文人のものだろうと言われてます(ちなみに西日本では弥生期に渡来したと思われるDNAが最多数)。これは研究者の間でも確実視されている。
ですので早い話、縄文人≒アイヌの人です。

左から、縄文土器・アイヌ文様・アイヌの女性(酒井美直さん)。べっぴんさん。

そして縄文土器かわいい!

こう、センスや美意識みたいなものって遺伝子に刻まれてるんだと思います。アイヌの文様がいにしえからずっと受け継がれてきたから、いにしえの縄文土器とテイストが似てるのだ、そういう見方もあるでしょうけど、それだけじゃないと思う。

縄文人のDNA、Y染色体“D2”系統は日本にしかありません。アイヌから琉球人まで、しかも端に行くほど高い割合で存在します。
この“D2”は人類発祥の地アフリカからぴょーんと高飛びして来た、なんてことはもちろんなくて、一段階前の“D祖型”が、インド洋のアンダマン・ニコバル諸島という所に高い割合で存在します。縄文人は、その周辺を経由してきた可能性が高いわけです。この離島の人達はまあ、言うたらのびのび暮らしてはったようです。現在はリゾート地化していて、どんな文化を持っていたのかも分かりづらい。

アンダマン諸島よりぐっと比率は下がるものの、インドネシアのスマトラ島にも“D祖型”が残っています。
そこの人達は、こんな家を建てて暮らして来たそうです。

まるで白川郷ですよ。で、飛騨地方は縄文系遺伝子の比率が高いそう。
偶然じゃないと思う。きっとつながってると思うんです。



さて、滋賀県にも縄文の人が来てはった形跡があります。
昨年ニュースになりました、相谷熊原(あいだにこもはら)遺跡。東近江市の愛知川上流、永源寺です。
縄文時代初め(約13,000年前)のものと見られる、直径8mの竪穴式住居跡が見つかった。8mって、かなりのもんです。しかも古い。
これ実は考古学的には、前面に報道されてたちっこい女体の焼き物なんぞより、よっぽど大発見なんだそうです(この遺跡の説明会に行きまして、小耳に挟みました)。

ちなみに永源寺って、「木地師の里」でもあります。
ろくろ挽きで木の椀などを作る職人、であるだけでなく、木材の選定・切り出しも行うエキスパートですね。ここを拠点にして、全国の山で木地師業を展開したそうな。きっと、その人達も縄文の血を継いでいたことでしょう。


ところで、
永源寺から20kmばかり離れた愛知川河口近く、旧能登川町に、神郷亀塚古墳という遺跡があります。
Wikipediaによれば、推定年代3世紀前半、邪馬台国と対立していた狗奴国のものと考えられうんたらかんたら。何言うてはるんすか。「狗奴国」は、魏志倭人伝に記載されている、邪馬台国の南にあった国です。少なくともそう書いてある。滋賀は奈良より北やん。地図くらい見てほしいわ。

ともかくこの古墳は、邪馬台国の年代にドンピシャなわけです。

しかも、2体並んで埋葬した跡があり、夫婦の墓だろうとのこと。それってすごく珍しい。女性も何らか高い身分だった可能性がある。
卑弥呼の墓でしょこれ。これ卑弥呼の墓でしょ。それ以外の何やというの。
というわけで卑弥呼の墓発見しましたっ。
もっとババーンとアピールせなあかんかな。まあいいや。


そもそも卑弥呼とは何かというと、魏志倭人伝によれば、こうです。
「その国(倭国)は元々も男子を王としていたが70 - 80年ほどで終わった。倭国は乱れ、何年も互いに攻め合うに及んで一人の女子を共立し王とした。名を卑弥呼という。」

この出来事は、日本神話の、
スサノオ狼藉→アマテラス岩戸隠れ→八百万の神、アマテラスを呼び戻しスサノオ追放 の流れと重なるかもしれないし重ならないかも知れない。
もし重なるとしても、アマテラスは「王」の座には着かなかったと思う。

和平のために「共立した王」って、王と言うよりも法王?のような存在ですよね。
もしくは、行政、立法に対する司法のような。
その人「卑弥呼」は、この島で一万年もの間、静かに暮らしを守ってきた縄文の人達から選ばれた、それはとてもありそうなことだと思うのです。
※ただ、能登川周辺はどういう人が住んでいたか、も考慮する必要はありますが。

高天原には、アマテラス・スサノオ・ツクヨミの他にも、たくさんの神がいました。
最初に生まれたとされる三神のうちの一人が、タカミムスビ、別名・高木神(タカギノカミ)。「葦原中国平定」の際には、アマテラス神よりも最終決定を行っていたように描かれている。
そのタカミムスビさんとは、縄文の人じゃないでしょうか。



というところで、弥生期に来た人々編に続きます。


Posted by みゃーの at 17:57 Comments(2)

2011年09月12日

東漢氏と伊都国

引き続き、魏志倭人伝の行路からです。
邪馬台国近江説はじめました
使者はどこから来た?
のあとにお読みくださいまし。

「帯方郡」からの使者は、おそらくこんな感じで来ました。


魏志倭人伝にはそれぞれの国について、次のように説明があります。
対海国
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
一支国
官は対海国と同じ。方三百里ばかり。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
末廬国
4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
「対海国」「一支国」の名称は後から書き換えられたものだとしても、その概要は、公孫氏の使者が伝えた通りの元のままなのかもしれません。
それぞれ、佐渡島、能登半島に対しても当てはまるのではないでしょうか。
「対海国」は島だと書いてあるのに対して、「一支国」は書いてない。これが壱岐島だとするなら、島だと書いてないのはおかしいです。少々、小姑めいたツッコミではありますが(^^;
そして実際、佐渡や能登の方言は関西弁に近いのだそうです。

さて
(最初にこの記事書いたとき、原理を思い切り間違っていたのですが(^^;;;)
中緯度にある日本付近では、偏西風が吹いている。
(冬に、西高東低の気圧配置、によって北西の強い風が吹く。)
春になると、この気圧配置が弱まり東風が吹く(※気圧配置が変化する際に起こるようです・・・正直よく理解できてません(^^; ですが、このルートは後に“渤海”という国との交易で実際に使われました)。
使者が、風向きの変化を利用して行き来したならば、風向きがかわるまで邪馬台国側で待機しなくてはなりません。

伊都国についてはこう書かれています。
伊都国
長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世王が居るが女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所
うん、ここで使者は風向きが変わるまで待機していた。そういうことでしょう。


この伊都国、従来の邪馬台国論でも重要な国と見なされています。
女王の他に王を持っている。また別の箇所の記述には、各国を見回る役人が伊都国に常駐していた、とあります。

この、“副官”の名前が一風変わってます。ほかの人名は、卑狗(ひこ)、卑奴母離(ひなもり)、彌彌那利(みみなり)などなど、「やまと言葉」的な音のようなのですが、この人達の名はやや違う響きです。
泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)
隣の「奴国」にも似たような名があります。長官、兕馬觚(しまこ)。伊都国からの出向でしょうか。

でも、もう少し後の時代の日本史には、そんな名前の人が登場しますよね。
小野妹子(いもこ)とか蘇我馬子(うまこ)とか。
そして二人とも「聖徳太子」と同時代の人物である・・・、というかはっきり言って同一人物やろ、という結論はとりあえず置いておきますが、
妹子さん・馬子さんとは、その時代に大和朝廷で大きな力を持っていたという「東漢氏」の人ではなかろうか。

そして「東漢氏(やまとのあやうじ)」とは、もともとは邪馬台国の時代に、「伊都国」、滋賀県の旧伊香郡に移り住んだ、またそこから各地へちらばった、漢の人たちではないでしょうか。


古保利古墳群数多くの観音像からも、そこが際立った何らかの歴史を持つ地だということは分かります。
でもそれだけではなく、後の時代にそこで生まれた人たちの業績もまた、伊都国がどんな場所だったかを雄弁に語っている、と思います。
儒学者?雨森芳洲(wikipediaを読むと、中国語・韓国語を流暢に操る外交官でもあったとか)。豊臣秀吉の軍師・黒田如水。
ヤンマー創業者・山岡孫吉氏。大きなものから小さなものまで動かす力だヤンマーディーゼル。
そのほか湖北発チェーン展開の酒屋さん本屋さん、わたくし大変お世話になってます。
そして、bjリーグ・滋賀レイクスターズ代表、坂井信介氏。


漢と書いて「おとこ」と読む、その理由が分かる気がします。


じゃあ邪馬台国は優秀な漢の人に支配された国だったのか。というと、そこは魏志倭人伝にも伊都国の王はあくまで伊都国の王として書かれている通りと思います。

一方、日本神話では、高天原で主導権を握っていたとされるのはアマテラスです。同時に生まれたとされるのがツクヨミ、そして、スサノオ。
スサノオは、一時は武力行使でもってアマテラスを制圧しますが、やおよろずの神々が相談した結果「やっぱしアマテラスさんやないと」ってことになって、天岩戸(あまのいわと)で隠遁生活してたアマテラスを引っ張り出します。なかなかに民主政治ですやん。

※前言撤回のおしらせ(>_<) 2011年09月21日
ここから---------
で、その神話の構図に当てはめるなら、
「スサノオ」=伊都国の王、でしっくりきます。
ただし、じゃあアマテラスは女王卑弥呼なのかというと、そこは違う気がしています(この件は、またいずれ)。


でもね、この「スサノオ」ってのが、出雲神話(日本神話出雲編)の登場人物でもある。けっこう無理がある二股です。
出雲の勢力ってのは葦原中国(あしはらなかつこく)にいて、高天原と対立していたとされている。
スサノオが、高天原と出雲をひらひらと行き来していたというのは、土台おかしな話です。

もしも、高天原でアマテラスと互角に渡り合っていたこの「神」の名が、「東漢氏」の祖先のものだったとしたら。
有能で野心的なその一族を権威付けるその名前を、のちに(一時的に)政権を掠め取って自分達に都合よく日本書紀・古事記を書き換えた人々が、放っておくわけないです。彼らにとっては、いの一番にその歴史はデリート対象でしょうね。
適当な名前を他のストーリーからコピー&ペーストで上書き、で任務完了です。お茶の子さいさいですね。平気でウソをつける人たちにとっては。
---------ここまで
この記事を書いたあと、いろいろ調べて考えるに、「出雲のスサノオ」の一族(というより民族)というのは、かなりあちこち進出してます。そういう人達のようです。そのうちの一派が高天原(邪馬台国)にいてもおかしくはなく、あとでその一族の話をまとめて「スサノオ」の物語としたのなら、スサノオが神出鬼没でも全く不思議ではありません。
言う事変わってごめんなさいね。
---------追記ここまで

まあ、なんだか私、あれがウソこれがウソばっかり言ってるみたいですが
実際、残念なことですが、もろもろの本当のことは、見つからなかったんじゃなくて隠されてきたんです。
本当の歴史を探り当てることは、すなわち、歴史を捻じ曲げてきた「悪意」を洗い出して白日に晒すことでもある。
ほんま難儀なことです。
ほんまにほんまに難儀なことですが、それは避けて通れない。


さて、とにかく何にせよ、
「スサノオ」の名で語られる漢の人よりも、アマテラスが選ばれた理由は何だったのでしょう。
占いでしょうか。妖術でしょうか。美貌でしょうか。んな。合理的でしたたかな滋賀県民なめたらあかんわ。
アマテラスが支持された理由は、ただの「信頼」だと思う。

邪馬台国は、小さな国の集まりです。異なる文化・価値観を持つ国々がつながるメリットがあるならば、それは交易です。余っている物をあげて、足りないものを貰う。そうすればみんなハッピー。三方よしです。
でもそれは簡単ではない。誰だって多く貰うほうがいいですもんね。
取りまとめる人が必要です。公正に、節度を持って。

だったら、アマテラス=ヤマトの人って、近江商人です。
その源流になった人たちです。
そして、外交は東漢氏が担う、「摂政制度」の原型はこの頃すでにあった。

そう考えれば、滋賀県が邪馬台国の中心だったという事の、現実的なイメージが湧きませんか?
まじないや英雄譚に彩られたファンタジーではなく。


邪馬台国は宙に浮いた絵空事の国なんかではなくて、太古から今日までずっと続いている、歴史の一部分です。
3世紀前半のヤマトの国は、その前の出来事にもその後の出来事にも、そして現代の私たちにもつながってる。

・・・ですので、今後も話はあちこちに飛びますがご容赦くださいませ(>_<)


Posted by みゃーの at 14:41 Comments(1)

2011年09月01日

使者はどこから来た?

このブログの最初の記事の通り、魏志倭人伝の「末廬国」が敦賀付近だと考えれば、そこから先は「女王の都」の手前まで、行路を難なく辿ることができます。
それでは「末廬国」より前は?
そもそも「帯方郡」ってどこ?

“魏志倭人伝”の冒頭には、このような記述があります。
「倭人は帯方郡東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。」

ということは、ですよ。
帯方郡の東南には大海があるはずです。
ところが、一般的に・・・というか邪馬台国論争界では、以下の位置に帯方郡を設定するのが“定説”になっています。

たしかに、東南に海がない事に目をつぶれば、そこから狗邪韓国:伽耶→対海国:対馬→一支国:壱岐→末廬国:松浦半島、とこれまたキレイに辿れます。
キレイ過ぎるほどです。日本人が漢字を知らなかったとされている時代に書かれているにも関わらず、「対海」「一支」というふさわしい字を充ててある。これは、むしろとても不自然です。
後の時代に得た情報を元に書き直したとしか思えないほどです。

辻褄が合わない場所はウソだと言ってしまえばどんな解釈でも通せてしまう、だから無闇にウソだと言うべきではない、それはそうなのですが、
この場合、編集者にはウソをつく動機があるようなんですね。


漢の時代には、朝鮮半島付け根東岸の平野も支配下にあったとされています。


しかし魏は、その山に隔てられた地までは、漢から奪い取れなかった。


朝鮮半島東岸から出発したのでは、「邪馬台国はに貢ぎ物捧げて頭下げてきてた」って言えないのです。
そういうハナシにするなら、朝鮮半島の西から出発していないといけない。そこなら魏の支配が届いていたから。


さて、そもそも帯方郡とはどういう場所なのか。

漢の時代、帯方郡及び楽浪(らくろう)郡は、太守・公孫氏が治める土地でした。
220年に漢は消滅し、魏となります。
しかし帯方郡・楽浪郡は引き続き公孫氏の領地でした。
公孫氏とは、言わば漢の残党ですね。

238年(景初二年)に公孫氏が滅び、帯方郡が魏の直轄地となったので、
その年の六月にすぐさま邪馬台国の女王卑弥呼は魏に使者を送った。
ということになってます。中国の史書によれば、です。
その情勢の変化をどうやって知ったんでしょうね。占いでしょうか。さすがです卑弥呼さま!・・・って、そんなアホな。

さらに不思議なことに、
魏の年号“景初”は三年(239年)までで終わっているにも関わらず、日本では景初四年(240年)の刻印のある鏡が出土しています。魏の人、教えてくれなかったんでしょうか。

もうね、
邪馬台国が魏と通じてた、それ自体、まず疑わしい。おかしい。無理がある。

邪馬台国と交流があったのは、あくまで漢の公孫氏、ではないでしょうか。


そもそも、です。日本でChinese Characterを「漢字」と呼ぶからには、それを持ち込んだのは漢の人のはずです。
もう少し後の時代、大和朝廷には漢氏(あやうじ)と呼ばれる“渡来人”がいたとされます。彼らには二派ありました。東漢氏(やまとのあやうじ)と、西漢氏(かわちのあやうじ・西文氏とも)。
ヤマトの漢氏のほうは、聖徳太子の政治とも密接に関わっていたとされます。

※ただし念を押したいのですが、現在の「漢民族」を自称する人々は、当時の、本来の「漢人」とは異なっています。おそらく「漢民族」という名称は、日本で「漢」という文字にネームバリューがあるので拝借したにすぎない、と、私は思います。
と、「漢氏」は単純に中国人ってわけではないですよ、とあくまで念押しした上で

「漢氏」はいつからヤマトの国にいたのでしょうか?
それは、「漢」の国がまだ中国に存在した頃から遠くないはずです。そうでなければ「あやうじ」に、「漢」の字を充てていないでしょう。
東漢氏(やまとのあやうじ)は、「漢」が衰退する前後、邪馬台国の時代に、すでに来ていた。
とするともう、彼らは“渡来人”なんかじゃないんですね。弥生時代に日本に来たいわゆる“弥生人”ってことになる。今までの教科書に載ってた、縄文人弥生人なんて括りは、もう全然ナンセンスです。


えー、さて
周辺事情に関するあれこれはこの辺にしまして
次回は、当時の邪馬台国、ヤマト国ではどういうことになってたのか、その辺を考えていこうと思うのですが、かなり回り道するかもしれません、あしからずです。


んで、まあ必要かどうかは分からないけど唐突ですが自己紹介しますが
私自身がもっとも色濃く血を引いているのは、稲作を持ってきた身軽でおちゃめなツクヨミの人々でもヤマトの人でもヤマトの漢氏の人でもなく、秦氏(はたうじ)って呼ばれてる人たちです。邪馬台国の時代から滋賀にいた人ではない。でも、だからこそ、おこがましいですが、客観的に見られる部分がある。なぜ、ご先祖が近江のヤマトの人々に従うと決めたか、わかる。なんとなく。気のせいかもしんないですけどね。
いろんな立場、出自などがあって、それでも、真実はひとつだと思います。どうぞ、ご一緒に・・・実際に顔をあわせることも言葉を交わすこともなくても、近江の邪馬台国のことを、一緒に考えてみてください。


Posted by みゃーの at 14:41 Comments(4)

2011年07月23日

邪馬台国は眠らない

お久しぶりです。
さて

邪馬台国近江説、日本神話の高天原が滋賀県にあった、なんて言っても
そんなこと今まで聞いた事ない、学校でも習わなかった
・・・って、思われるかもしれません。
うん。
ならば考える必要があります。

どこで「歴史」は書き変えられたんだろう?


古事記・日本書紀に記された歴史には、いくつか不合理な点があります。

・天武天皇こと大海人は天智天皇の弟、とされるが年齢など辻褄が合わない
・聖徳太子の実在性は疑わしく、蘇我氏の露骨な悪玉扱いも不可解
など。

この古事記の編集を命じたのは、よりによって、天武天皇です。
大海人が天智天皇の弟だったと書かせたのは、当の天武天皇だと言うのです。
そんなんね。ウソに決まってますやんか。

ここまで状況証拠があって、判断になんの躊躇が必要でしょうか?
近江京が痛手を受けた壬申の乱とは、赤の他人によるクーデター、
つまり、皇位乗っ取り、です。
しかし数代を経て、皇統は天智天皇の直系へと戻りました。
天皇家が古代から現代まで続いている、という事実は揺るぎません。

青字が継体~天智の系統、赤字が天武系の天皇です。
持統・元明は共に天智の娘であり、それぞれ天武・その子に嫁いだとされます。


507年 継体天皇 即位
       |
587年 崇峻天皇 即位
同年 物部氏、蘇我氏により失脚
593年 推古天皇 即位
629年 舒明天皇 即位
642年 皇極天皇 即位
645年 孝徳天皇 即位 (難波宮)
同年  乙巳の変/蘇我入鹿暗殺
655年 斉明天皇 即位
663年 白村江の戦い
668年 天智天皇 即位 (近江京)
672年 弘文天皇 即位
同年  壬申の乱
673年 天武天皇(大海人) 即位
684年? 伊勢神宮 創建
690年 持統天皇 即位
697年 文武天皇 即位
707年 元明天皇 即位
710年 平城京遷都
712年 古事記 完成
715年 元正天皇 即位
720年 日本書紀 完成
724年 聖武天皇 即位
749年 孝謙天皇 即位
758年 淳仁天皇 即位
764年 称徳天皇 即位
770年 光仁天皇 即位
781年 桓武天皇 即位
794年 平安京遷都


乗っ取り政権のまま平城京への遷都が行われた、その際に
さまざまな「歴史」が奈良へと持ち去られたことでしょう。

ところで、
守山の豪族「物部氏」とは、一体いつ来たのでしょうか?

彼らは三重の「伊勢」からやってきて、既に廃墟となった天安河原の跡に住み
「アマテラス」を自分達の故地に奉った・・・その権威を手に入れんがために。

それが、壬申の乱の後に起こったことだろうと、思います。

今も昔も、既存の権威を笠に着ることで手っ取り早く力を得たい、
そういう志向の方々なのかもしれませんね。


しかし、史書を書き換えられようとアマテラスが誘拐されようと
その地に住む人々の暮らしが絶えて消え去るわけではありません。
古代ヤマトは、現代までずっと続いて来たのです。

さて、
邪馬台国が滋賀県にあったとしても
継体天皇とはつながりがないんじゃないか、と思われるかもしれませんが、
そこには、非常にもつれた歴史のアヤがあるように思います。
それはまた、次回に。


Posted by みゃーの at 02:23 Comments(0)
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みゃーの
愛知川(+野洲+京都白川)と 北陸(能登+金沢)にルーツを持つ、 近江八幡市民(新興住宅地そだち)。三十路。
おとんは京大理学部(いちおう)卒、おかんは奈良女子大理学部(生物)卒、本人は高卒ですがそれがなにか?
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