使者はどこから来た?

みゃーの

2011年09月01日 14:41


このブログの最初の記事の通り、魏志倭人伝の「末廬国」が敦賀付近だと考えれば、そこから先は「女王の都」の手前まで、行路を難なく辿ることができます。
それでは「末廬国」より前は?
そもそも「帯方郡」ってどこ?

“魏志倭人伝”の冒頭には、このような記述があります。
「倭人は帯方郡東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。」

ということは、ですよ。
帯方郡の東南には大海があるはずです。
ところが、一般的に・・・というか邪馬台国論争界では、以下の位置に帯方郡を設定するのが“定説”になっています。

たしかに、東南に海がない事に目をつぶれば、そこから狗邪韓国:伽耶→対海国:対馬→一支国:壱岐→末廬国:松浦半島、とこれまたキレイに辿れます。
キレイ過ぎるほどです。日本人が漢字を知らなかったとされている時代に書かれているにも関わらず、「対海」「一支」というふさわしい字を充ててある。これは、むしろとても不自然です。
後の時代に得た情報を元に書き直したとしか思えないほどです。

辻褄が合わない場所はウソだと言ってしまえばどんな解釈でも通せてしまう、だから無闇にウソだと言うべきではない、それはそうなのですが、
この場合、編集者にはウソをつく動機があるようなんですね。


漢の時代には、朝鮮半島付け根東岸の平野も支配下にあったとされています。


しかし魏は、その山に隔てられた地までは、漢から奪い取れなかった。


朝鮮半島東岸から出発したのでは、「邪馬台国はに貢ぎ物捧げて頭下げてきてた」って言えないのです。
そういうハナシにするなら、朝鮮半島の西から出発していないといけない。そこなら魏の支配が届いていたから。


さて、そもそも帯方郡とはどういう場所なのか。

漢の時代、帯方郡及び楽浪(らくろう)郡は、太守・公孫氏が治める土地でした。
220年に漢は消滅し、魏となります。
しかし帯方郡・楽浪郡は引き続き公孫氏の領地でした。
公孫氏とは、言わば漢の残党ですね。

238年(景初二年)に公孫氏が滅び、帯方郡が魏の直轄地となったので、
その年の六月にすぐさま邪馬台国の女王卑弥呼は魏に使者を送った。
ということになってます。中国の史書によれば、です。
その情勢の変化をどうやって知ったんでしょうね。占いでしょうか。さすがです卑弥呼さま!・・・って、そんなアホな。

さらに不思議なことに、
魏の年号“景初”は三年(239年)までで終わっているにも関わらず、日本では景初四年(240年)の刻印のある鏡が出土しています。魏の人、教えてくれなかったんでしょうか。

もうね、
邪馬台国が魏と通じてた、それ自体、まず疑わしい。おかしい。無理がある。

邪馬台国と交流があったのは、あくまで漢の公孫氏、ではないでしょうか。


そもそも、です。日本でChinese Characterを「漢字」と呼ぶからには、それを持ち込んだのは漢の人のはずです。
もう少し後の時代、大和朝廷には漢氏(あやうじ)と呼ばれる“渡来人”がいたとされます。彼らには二派ありました。東漢氏(やまとのあやうじ)と、西漢氏(かわちのあやうじ・西文氏とも)。
ヤマトの漢氏のほうは、聖徳太子の政治とも密接に関わっていたとされます。

※ただし念を押したいのですが、現在の「漢民族」を自称する人々は、当時の、本来の「漢人」とは異なっています。おそらく「漢民族」という名称は、日本で「漢」という文字にネームバリューがあるので拝借したにすぎない、と、私は思います。
と、「漢氏」は単純に中国人ってわけではないですよ、とあくまで念押しした上で

「漢氏」はいつからヤマトの国にいたのでしょうか?
それは、「漢」の国がまだ中国に存在した頃から遠くないはずです。そうでなければ「あやうじ」に、「漢」の字を充てていないでしょう。
東漢氏(やまとのあやうじ)は、「漢」が衰退する前後、邪馬台国の時代に、すでに来ていた。
とするともう、彼らは“渡来人”なんかじゃないんですね。弥生時代に日本に来たいわゆる“弥生人”ってことになる。今までの教科書に載ってた、縄文人弥生人なんて括りは、もう全然ナンセンスです。


えー、さて
周辺事情に関するあれこれはこの辺にしまして
次回は、当時の邪馬台国、ヤマト国ではどういうことになってたのか、その辺を考えていこうと思うのですが、かなり回り道するかもしれません、あしからずです。


んで、まあ必要かどうかは分からないけど唐突ですが自己紹介しますが
私自身がもっとも色濃く血を引いているのは、稲作を持ってきた身軽でおちゃめなツクヨミの人々でもヤマトの人でもヤマトの漢氏の人でもなく、秦氏(はたうじ)って呼ばれてる人たちです。邪馬台国の時代から滋賀にいた人ではない。でも、だからこそ、おこがましいですが、客観的に見られる部分がある。なぜ、ご先祖が近江のヤマトの人々に従うと決めたか、わかる。なんとなく。気のせいかもしんないですけどね。
いろんな立場、出自などがあって、それでも、真実はひとつだと思います。どうぞ、ご一緒に・・・実際に顔をあわせることも言葉を交わすこともなくても、近江の邪馬台国のことを、一緒に考えてみてください。