2010年12月20日
邪馬台国近江説はじめました
単刀直入に申しまして、
どうやら邪馬台国は滋賀県にあったようです。
おそらく皆さんが連想されるであろう、春にお二方が出版なさった「邪馬台国近江説」は、共に守山の「伊勢遺跡」を根拠とするものですが
これからお話させていただくのは、魏志倭人伝に書かれた行路を辿ったら、滋賀県に着いたよ。というものです。
魏志倭人伝に書かれている道程を要約すると、こうです。
図にすると、こう。
青字は船での移動です。
2度に分けて船を使っています。一旦、陸に上がっている。もし船で回りこめる場所なら、ずっと乗って行く方がラクです。
しかも、「渡海」ではなく「水行」と書いてあるのです。
海から来て、陸をはさんで、水辺があり、その向こうにまた陸がある。この条件から、邪馬台国四国説なんてのもあるようですが(^^;
そりゃもう、
その水辺は琵琶湖でしょう。
もちろん、琵琶湖を縦断するのに20日もかかるなんてあり得ませんが、そもそもこの20日という数字は、日本のどこの海を渡るにしても大きすぎ、実際の距離を正直に記したものとは考えられません。
琵琶湖を南に渡る、ならば「水行」の出発地点は湖北です。
陸を東南に進んで湖北に着くならば、最初に上陸した海岸は、湖北から見て北西にある、福井・敦賀湾。
敦賀が「末廬国」とすると、そこから琵琶湖までの間に「伊都国」「奴国」「不弥国」があるはずです。
高月、長浜、伊吹。
1里=約100mと考えると、とても古い歴史を持つこの三つの町が、ちょうど当てはまります。
※一般的な「1里」は約3.9kmですが、古代中国の史書での「1里」は、約435m(長里)、または75~90m(短里)のどちらかだと考えられるそうです。
そして、琵琶湖を南に水行して到着する「投馬国」、
これは野洲川下流の、銅鐸の町・野洲、伊勢遺跡のある守山。この辺りで間違いないでしょう。
そこから更に水行。ということで、野洲川をさかのぼります。
守山市の下長遺跡から準構造船(木をくりぬいた丸木船を改造した大型の船)のパーツが出土しており、弥生後期には野洲川が水運に利用されていたとのこと。
このように進みます。
そして、また陸路を南へ行き、邪馬台国へ・・・、
どこでしょうね、邪馬台国の女王の都。
野洲川をどこまでさかのぼり、歩いてどこまで行くのか。それは魏志倭人伝の記述からは探り切れません。
野洲川の南にある、という意味では、守山の伊勢遺跡も該当しますし
水口まで行って、甲賀、三重県の伊賀市、名張市、奈良県宇陀市を経由して奈良盆地まで行ったのだとも考えられます。
ですが、私が邪馬台国の女王卑弥呼の住まいだったのではないかと思うのは、信楽です。
信楽の「内裏野(だいりの)」には、かつて紫香楽宮跡とされていた遺跡があります。しかし、後の調査で「宮町遺跡」が紫香楽宮跡である、ということになって、内裏野の遺跡は「甲賀寺(東大寺以前の大仏建立計画地)」の跡である、とされているそうです。
でも、寺の跡ならどうして「内裏野(だいりの)」と呼ばれてるんでしょうか。甲賀寺が建設される前、そこは宮跡だったのでは・・・
とはいえ、信楽が邪馬台国の都だ!と断言できるほどの根拠ではありませんね。
卑弥呼はどこにいたのか?どこのどういう人なの?
「邪馬台国」にまつわる話では、それが一番の気になる疑問かもしれません。
でも、ひとまず、
魏志倭人伝に書かれたルートが滋賀を通っていて、邪馬台国、ヤマト国の主要部分がここにあった。
これは確実なことです。
と、いうことをなんとか説得したくて動画まで作ったりしたのですが、いまいち反応うすいんですよ!なんで!なんでですか!もっと学術的ちっくにやらなきゃ信用できないんですか!そういうヤリクチの方が信用できないですってば!
実際、邪馬台国100年論争だとか言いますけど、真実を目指して論争なんてしてないんですよ。皆さん我田引水したいだけで。
だったら、真実が滋賀にあるなら、滋賀県民が本気で考えなければ、真実はいつまでも埋もれたままなんです。
どうか、真剣に、受け止めていただきたいんです。
どうやら邪馬台国は滋賀県にあったようです。
おそらく皆さんが連想されるであろう、春にお二方が出版なさった「邪馬台国近江説」は、共に守山の「伊勢遺跡」を根拠とするものですが
これからお話させていただくのは、魏志倭人伝に書かれた行路を辿ったら、滋賀県に着いたよ。というものです。
魏志倭人伝に書かれている道程を要約すると、こうです。
帯方郡より倭国に至るには、
船で朝鮮半島を経て7000余里で狗邪韓国に到着する。
そこから海を1000余里渡り、対海国に着く。
瀚海と呼ばれる海を南に1000余里渡ると一大国に至る。
また海を1000余里渡ると末廬国に至る。
東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。
東南へ100里進むと奴国に至る。
東へ100里行くと不弥国に至る。
南へ水行20日で投馬国に至る。
南へ水行10日、陸行1月で、女王の都のある邪馬台国に至る。
青字は船での移動です。
2度に分けて船を使っています。一旦、陸に上がっている。もし船で回りこめる場所なら、ずっと乗って行く方がラクです。
しかも、「渡海」ではなく「水行」と書いてあるのです。
海から来て、陸をはさんで、水辺があり、その向こうにまた陸がある。この条件から、邪馬台国四国説なんてのもあるようですが(^^;
そりゃもう、
その水辺は琵琶湖でしょう。
もちろん、琵琶湖を縦断するのに20日もかかるなんてあり得ませんが、そもそもこの20日という数字は、日本のどこの海を渡るにしても大きすぎ、実際の距離を正直に記したものとは考えられません。
琵琶湖を南に渡る、ならば「水行」の出発地点は湖北です。
陸を東南に進んで湖北に着くならば、最初に上陸した海岸は、湖北から見て北西にある、福井・敦賀湾。
敦賀が「末廬国」とすると、そこから琵琶湖までの間に「伊都国」「奴国」「不弥国」があるはずです。
高月、長浜、伊吹。
1里=約100mと考えると、とても古い歴史を持つこの三つの町が、ちょうど当てはまります。
※一般的な「1里」は約3.9kmですが、古代中国の史書での「1里」は、約435m(長里)、または75~90m(短里)のどちらかだと考えられるそうです。
そして、琵琶湖を南に水行して到着する「投馬国」、
これは野洲川下流の、銅鐸の町・野洲、伊勢遺跡のある守山。この辺りで間違いないでしょう。
そこから更に水行。ということで、野洲川をさかのぼります。
守山市の下長遺跡から準構造船(木をくりぬいた丸木船を改造した大型の船)のパーツが出土しており、弥生後期には野洲川が水運に利用されていたとのこと。
そして、また陸路を南へ行き、邪馬台国へ・・・、
どこでしょうね、邪馬台国の女王の都。
野洲川をどこまでさかのぼり、歩いてどこまで行くのか。それは魏志倭人伝の記述からは探り切れません。
野洲川の南にある、という意味では、守山の伊勢遺跡も該当しますし
水口まで行って、甲賀、三重県の伊賀市、名張市、奈良県宇陀市を経由して奈良盆地まで行ったのだとも考えられます。
ですが、私が邪馬台国の女王卑弥呼の住まいだったのではないかと思うのは、信楽です。
信楽の「内裏野(だいりの)」には、かつて紫香楽宮跡とされていた遺跡があります。しかし、後の調査で「宮町遺跡」が紫香楽宮跡である、ということになって、内裏野の遺跡は「甲賀寺(東大寺以前の大仏建立計画地)」の跡である、とされているそうです。
でも、寺の跡ならどうして「内裏野(だいりの)」と呼ばれてるんでしょうか。甲賀寺が建設される前、そこは宮跡だったのでは・・・
とはいえ、信楽が邪馬台国の都だ!と断言できるほどの根拠ではありませんね。
卑弥呼はどこにいたのか?どこのどういう人なの?
「邪馬台国」にまつわる話では、それが一番の気になる疑問かもしれません。
でも、ひとまず、
魏志倭人伝に書かれたルートが滋賀を通っていて、邪馬台国、ヤマト国の主要部分がここにあった。
これは確実なことです。
と、いうことをなんとか説得したくて動画まで作ったりしたのですが、いまいち反応うすいんですよ!なんで!なんでですか!もっと学術的ちっくにやらなきゃ信用できないんですか!そういうヤリクチの方が信用できないですってば!
実際、邪馬台国100年論争だとか言いますけど、真実を目指して論争なんてしてないんですよ。皆さん我田引水したいだけで。
だったら、真実が滋賀にあるなら、滋賀県民が本気で考えなければ、真実はいつまでも埋もれたままなんです。
どうか、真剣に、受け止めていただきたいんです。
Posted by
みゃーの
at
11:50
│Comments(2)
この記事へのコメント
邪馬台国近江説も我田引水でしょ?
自説を主張するのは良いけど、単刀直入に他説を否定して近江と断定してるから、同じ穴のムジナとしか・・・
自説を主張するのは良いけど、単刀直入に他説を否定して近江と断定してるから、同じ穴のムジナとしか・・・
Posted byえ?at2010年12月20日 12:31
え?さん、
今まで、滋賀県のひとは、邪馬台国が滋賀県にあったかもなんて我田引水やんな~と思って、その可能性を考えてきませんでした。
だからこんな簡単な答えが埋もれたままだったんです。
説明に、ご納得できない点があれば、ご指摘くださいね(^^
今まで、滋賀県のひとは、邪馬台国が滋賀県にあったかもなんて我田引水やんな~と思って、その可能性を考えてきませんでした。
だからこんな簡単な答えが埋もれたままだったんです。
説明に、ご納得できない点があれば、ご指摘くださいね(^^
Posted byみゃーのat2010年12月20日 13:25