2011年10月26日
やおよろずの神々/呉越
さて、次は弥生時代に来た人達のこと。
約 2,300年前~ 弥生時代
・・・のはずが、どうやら「弥生時代」の定義はかなり迷走してるようです。
かつては、「文明的な弥生人が北方から来て、原始的だった日本に稲作を伝えたぞ!」みたいな筋書きで習いましたが、
しかし、畑でも育つ陸稲(熱帯ジャポニカ)が約6000年前にすでに渡って来てた跡が見つかった。持って来たヒトがいたわけです。そして、水稲(温帯ジャポニカ)の耕作もおよそ3000年前には伝わってたって話にもなって、
「現在では政治的意図もからみ弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である(Wikipediaより)」
・・・政治的意図とな???
そんなもんに付き合ってたらラチが明かないので、別の方向から当たります。
日本で2番目に多いDNA、Y染色体“O2b1/O2b”タイプ。
これは日本と韓国で多く、満洲・モンゴルにも若干広がっています。
だったら北から来た遺伝子か。と思いきや、ベトナムなどにも多少見られる。
実はこれは南のほうが本家で、
元は中国南部、長江あたりにいた人達が、周辺の民族に押し出され、船で日本列島・朝鮮半島に逃れた。
ということらしいです。
兄弟タイプの“O2a(日本にもわずかにあり)”が東南アジア組なことからも、“O2b1/O2b”は長江以南の遺伝子だと。
そして、その人達が、長江周辺で培ったノウハウを元に、日本でも大規模な水田耕作を始めた、と。
まあ、普通に考えて稲作は南の方の人ですよね。黄河流域は小麦栽培が主だったらしいです。なーんで稲作は北方民族が伝えたなんてことになってたんだろう。
さて、その人達の足あと、中国悠久の歴史とやらに残ってないもんでしょうかね。
時は春秋戦国時代。(クリックで拡大)
ま、正確な地図ではないでしょうけど、要は長江付近に二つの国があった、ということですね。
呉(ご)と越(えつ)。南にあった方が越。両者は激しいライバル関係だった。
この呉が、三国志の呉とどのくらい関連があるのかはよく分かりません。「孫子の兵法」の孫子が、この呉の軍師だという話もあるとか。
そのほか、二国にはいろいろ逸話があるようですが、とりあえず省略。
紀元前473年 呉、越との争いに敗れ、滅亡。
紀元前334年 越、内陸の楚の進撃により滅亡。
一部の王族は南へ逃れ、のちに秦に吸収され、更にのちベトナムを建国。
日本の「弥生時代」の始まりに相当する頃、長江付近で呉と越が滅びました。
倭人は呉の太白の子孫を自称していた、と中国の史書にも書いてあるそうです。
だったら、この人達が日本に来たんやん。はっきりしてあるやん。
こんな簡単な事さえつっこまないなんて、日本の史学の人はすっとこどっこいなのですか。
この呉・越がどんな国だったというと、
中国でテレビドラマ化されてます!(クリックで拡大)
こんな人達が渡来し、日本の「弥生時代」は本格的に幕を開けたのです!
・・・え?ありゃ?まじで?(^^;;;
←じゃあなんでこうなったん・・・(クリックで拡大)
うん。どっちもおかしいですよね。
この中国の時代劇の定番スタイル、原型はおそらく秦の人(兵馬俑@始皇帝陵)です。でも、「秦の中国統一」は紀元前231年です。それ以前の中国南部で、このスタイルが浸透してたとは思えません。
かれらの生活は、かなり日本風だったはず。
だって日本の、特に平野部のひとたちの多くは、おそらく、この呉・越から来た。かれらは日本に来た途端に日本風になったわけじゃない、中国にいたときも同じような感じだったはずです。
現代でも着物売る店を「呉服屋」と言うように、着物の原型は、"呉”の衣服にあるのでは。・・・と思いますが、これは判断がむずかしい。手がかりがないのです。
一方、"越"のほうは、大陸に残った人達が、のちに南下してベトナムを建国したとのこと。これは有力な手がかりです。
ベトナムと言えばステキ雑貨の数々。
あきらかに「和」のモノとの共通点があります。
しかも、現代の日本の「和風グッズ」よりも、生きたセンスがある。色気がある。かわいい。形だけの「伝統」にはなってない。
ぞうり・下駄。鼻緒で履くはきもの。
これを、韓国では「豚の足」に例えてバカにする言い方があるそうで、つまり、このカタチは韓国にはないもののようです。
DNAの構成で見れば、日本と韓国は近い。はっきり異なるのは、前回挙げたように、日本に縄文人の遺伝子があり、最多であること。ミクロネシア経由の遺伝子があること。そして、東南アジア系の遺伝子があること、です。そして縄文人の遺伝子もおそらく東南アジア経由です。
つまりすべて南からの遺伝子ですね。
ぞうりや下駄が、そちらから来ているのは間違いない。
それに、竹製品。
竹というのは日本では、ほぼ全国(北海道・青森以外)に生えてます。なので東アジア全域でも、と思いきや、日本以外ではもっと低緯度でしか生えないそうです。
素材がなければ技術も育ちようがないですから、竹細工というのも、やっぱり南方から来た人たちの影響が大きいはずです。
呉・越の、とくに南側にあった"越”の国の文化は、かなり「和風のモノ」のベースになってる、という気がします。
服に関しては、ちょっとちがいそうですが(ベトナムの民族衣装といえばアオザイ)。
もうひとつ。
ベトナムには人形劇の伝統があります。
大蛇の動きがすごすぎる。
こちらは、日本が誇る人形劇(人形浄瑠璃)、“文楽”。
「カクン。」て。。その後どうなったんや(>_<)
ベトナムからちょっと離れて、タイには、人形浄瑠璃と同じく、3人で一つの人形を操る人形劇があるそうです。
さて、
呉と越。この二国のDNAは、まったく同じではないはずです。
おそらく、「弥生時代」に日本に先に来た呉人の、メインのY-DNAは、日本で2番目に多い“O2b1”。
越人の中にも“O2b1”はあったでしょうけれど、それだけではありえない。呉と越は言葉も異なっていた可能性が高い。
これはまったく「なんとなく」の推論ですが、“越”にも縄文遺伝子“D2”が残っていたのではないか、と私は思っています。
そして、ほぼ確実に言えるのは、日本にわずかにある“O2a”、これは越人に含まれていたのだろうということ。
“O2a”は、ベトナム含む東南アジア、中国南部に分布する遺伝子です。
東南アジアのにおいがする風貌のひと、日本にも、たまにいはりますよね。
サッカー日本代表・長友選手、ネプチューン・名倉さん。
(もちろん、実際のDNA型などは分かりませんけれども。)
えーと。
邪馬台国の成り立ちを考えるばあいに、より重要なのは、“呉”のほうです。
滋賀県の、とくに野洲川流域という稲作に向いた豊かな土地は、まず先に来た呉人が確保したにちがいないですから。
なんですが、そちらは後まわし、ひとまず“越”にフォーカスして話をすすめます。次回に、つづきます。
約 2,300年前~ 弥生時代
・・・のはずが、どうやら「弥生時代」の定義はかなり迷走してるようです。
かつては、「文明的な弥生人が北方から来て、原始的だった日本に稲作を伝えたぞ!」みたいな筋書きで習いましたが、
しかし、畑でも育つ陸稲(熱帯ジャポニカ)が約6000年前にすでに渡って来てた跡が見つかった。持って来たヒトがいたわけです。そして、水稲(温帯ジャポニカ)の耕作もおよそ3000年前には伝わってたって話にもなって、
「現在では政治的意図もからみ弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である(Wikipediaより)」
・・・政治的意図とな???
そんなもんに付き合ってたらラチが明かないので、別の方向から当たります。
日本で2番目に多いDNA、Y染色体“O2b1/O2b”タイプ。
これは日本と韓国で多く、満洲・モンゴルにも若干広がっています。
だったら北から来た遺伝子か。と思いきや、ベトナムなどにも多少見られる。
実はこれは南のほうが本家で、
元は中国南部、長江あたりにいた人達が、周辺の民族に押し出され、船で日本列島・朝鮮半島に逃れた。
ということらしいです。
兄弟タイプの“O2a(日本にもわずかにあり)”が東南アジア組なことからも、“O2b1/O2b”は長江以南の遺伝子だと。
そして、その人達が、長江周辺で培ったノウハウを元に、日本でも大規模な水田耕作を始めた、と。
まあ、普通に考えて稲作は南の方の人ですよね。黄河流域は小麦栽培が主だったらしいです。なーんで稲作は北方民族が伝えたなんてことになってたんだろう。
さて、その人達の足あと、中国悠久の歴史とやらに残ってないもんでしょうかね。
時は春秋戦国時代。(クリックで拡大)
ま、正確な地図ではないでしょうけど、要は長江付近に二つの国があった、ということですね。
呉(ご)と越(えつ)。南にあった方が越。両者は激しいライバル関係だった。
この呉が、三国志の呉とどのくらい関連があるのかはよく分かりません。「孫子の兵法」の孫子が、この呉の軍師だという話もあるとか。
そのほか、二国にはいろいろ逸話があるようですが、とりあえず省略。
紀元前473年 呉、越との争いに敗れ、滅亡。
紀元前334年 越、内陸の楚の進撃により滅亡。
一部の王族は南へ逃れ、のちに秦に吸収され、更にのちベトナムを建国。
日本の「弥生時代」の始まりに相当する頃、長江付近で呉と越が滅びました。
倭人は呉の太白の子孫を自称していた、と中国の史書にも書いてあるそうです。
だったら、この人達が日本に来たんやん。はっきりしてあるやん。
こんな簡単な事さえつっこまないなんて、日本の史学の人はすっとこどっこいなのですか。
この呉・越がどんな国だったというと、
中国でテレビドラマ化されてます!(クリックで拡大)
こんな人達が渡来し、日本の「弥生時代」は本格的に幕を開けたのです!
・・・え?ありゃ?まじで?(^^;;;
←じゃあなんでこうなったん・・・(クリックで拡大)
うん。どっちもおかしいですよね。
この中国の時代劇の定番スタイル、原型はおそらく秦の人(兵馬俑@始皇帝陵)です。でも、「秦の中国統一」は紀元前231年です。それ以前の中国南部で、このスタイルが浸透してたとは思えません。
かれらの生活は、かなり日本風だったはず。
だって日本の、特に平野部のひとたちの多くは、おそらく、この呉・越から来た。かれらは日本に来た途端に日本風になったわけじゃない、中国にいたときも同じような感じだったはずです。
現代でも着物売る店を「呉服屋」と言うように、着物の原型は、"呉”の衣服にあるのでは。・・・と思いますが、これは判断がむずかしい。手がかりがないのです。
一方、"越"のほうは、大陸に残った人達が、のちに南下してベトナムを建国したとのこと。これは有力な手がかりです。
ベトナムと言えばステキ雑貨の数々。
しかも、現代の日本の「和風グッズ」よりも、生きたセンスがある。色気がある。かわいい。形だけの「伝統」にはなってない。
ぞうり・下駄。鼻緒で履くはきもの。
これを、韓国では「豚の足」に例えてバカにする言い方があるそうで、つまり、このカタチは韓国にはないもののようです。
DNAの構成で見れば、日本と韓国は近い。はっきり異なるのは、前回挙げたように、日本に縄文人の遺伝子があり、最多であること。ミクロネシア経由の遺伝子があること。そして、東南アジア系の遺伝子があること、です。そして縄文人の遺伝子もおそらく東南アジア経由です。
つまりすべて南からの遺伝子ですね。
ぞうりや下駄が、そちらから来ているのは間違いない。
それに、竹製品。
竹というのは日本では、ほぼ全国(北海道・青森以外)に生えてます。なので東アジア全域でも、と思いきや、日本以外ではもっと低緯度でしか生えないそうです。
素材がなければ技術も育ちようがないですから、竹細工というのも、やっぱり南方から来た人たちの影響が大きいはずです。
呉・越の、とくに南側にあった"越”の国の文化は、かなり「和風のモノ」のベースになってる、という気がします。
服に関しては、ちょっとちがいそうですが(ベトナムの民族衣装といえばアオザイ)。
もうひとつ。
ベトナムには人形劇の伝統があります。
大蛇の動きがすごすぎる。
こちらは、日本が誇る人形劇(人形浄瑠璃)、“文楽”。
「カクン。」て。。その後どうなったんや(>_<)
ベトナムからちょっと離れて、タイには、人形浄瑠璃と同じく、3人で一つの人形を操る人形劇があるそうです。
さて、
呉と越。この二国のDNAは、まったく同じではないはずです。
おそらく、「弥生時代」に日本に先に来た呉人の、メインのY-DNAは、日本で2番目に多い“O2b1”。
越人の中にも“O2b1”はあったでしょうけれど、それだけではありえない。呉と越は言葉も異なっていた可能性が高い。
これはまったく「なんとなく」の推論ですが、“越”にも縄文遺伝子“D2”が残っていたのではないか、と私は思っています。
そして、ほぼ確実に言えるのは、日本にわずかにある“O2a”、これは越人に含まれていたのだろうということ。
“O2a”は、ベトナム含む東南アジア、中国南部に分布する遺伝子です。
東南アジアのにおいがする風貌のひと、日本にも、たまにいはりますよね。
サッカー日本代表・長友選手、ネプチューン・名倉さん。
(もちろん、実際のDNA型などは分かりませんけれども。)
えーと。
邪馬台国の成り立ちを考えるばあいに、より重要なのは、“呉”のほうです。
滋賀県の、とくに野洲川流域という稲作に向いた豊かな土地は、まず先に来た呉人が確保したにちがいないですから。
なんですが、そちらは後まわし、ひとまず“越”にフォーカスして話をすすめます。次回に、つづきます。
Posted by
みゃーの
at
18:47
│Comments(2)
この記事へのコメント
呉竹のゆらいもきになりますねいつも楽しく拝見させてもらってます ありがとう
Posted by小熊at2011年10月27日 02:56
全く間違った司馬史観に基づいた見解。日本人のルーツはポリネシア周辺とバイカル湖周辺が起源という説が血液型やDNAの解明から明らかになってきている。沖縄北海道にはその痕跡が残る人たちが大勢いる。
DNAなどから支那人などとは根本的には全く人種が違う。
DNAなどから支那人などとは根本的には全く人種が違う。
Posted by枝次郎at2015年04月13日 11:22